WHERE I WAS BORN

just my memorandum

Aug 13
“私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。” ヘルマン・ヘッセ「デミアン」

Jul 23

宇宙に行く夢をみなくなった話

とても小さい頃から、よく宇宙に行く夢を見ていた。二度と地球にもどれないと分かっていながら、志願してちいさな宇宙船に乗り込む。六角形の窓から地球が遠ざかり、ゴルフボール大になって、ついぞ見えなくなるまで目をこらしては、毎回胸を引き裂かれるような感覚を覚えながらも、それでも私は行くんだなあ、と他人事のように考えていた。

けれど、つい5年ほど前からいろんな人と付き合うようになって、居場所ができてから、身体というものはずいぶんずっしりと重いものだと当たり前のことに気がついた。何も鑑みず、無重力の中でワンステップで遠くまではねていた頃とは訳がちがったけど、重力にまかせてやわらかいところに身を任せるのは気持ちがいいもんだ、と感心しきりだった。が、結局は遠くに行く事を選んだため、重くなった身体を抱えて、今は大切なひとたちと生まれ故郷から1200キロメートルくらい離れて暮らしている。

今までの自分を培ったものから離れてみると、ずいぶんひとりぼっちな気がしてきて、この4ヶ月というものの、ゴルフボール大の地球を眺めるような、妙にそわそわする気持ちを感じていた。遠くに行くのがいやだ、という気持ちをもったのではなくて、元々殆ど家族が住んでいないような家から離れ、ついぞ、帰る場所がわからなくなった、というのが正しいと思う。基本的に根無し草的な生活にならざるを得ない生き方を選択してしまったし、楽しく暮らしているんだけれど、ふわふわで歩き心地がよくて、でも安定しない足下に少しだけ不安になる。こともある。

昔はあんなに戻らないこと、誰も知らない遠くに行くことにこだわっていたのに、今では戻っておいでという声にちょっとだけ心を惹かれてるのはおかしな話だ。と、思うと同時に、宇宙に行く夢を見る時、あんなに戻らないことを決めていた自分の帰る場所はたったひとつだったんだなあ、と今更ながらに気がついた。

今は帰る場所は決まってないけれど、多くのひとに一つずつ、必ず帰れるように、くさびみたいなものを打ってもらったり遠くでテールランプなんかをチカチカしてもらったりしている。そんなこんなでいつからか、もう宇宙に行く夢は見なくなってしまった。


my fixed star

my fixed star


rainy day

rainy day


Jun 9

sunset in the early summer


May 15

選ぶこと

さいきんは久しくこの人と一緒にいたい、なんて人が現れなかったので選ぶとか選ばれる、という感覚がよくわからなくなってた。いままでわたしにすきだと言ってくれたひともこちらをきちんと選んでくれていたはずなのに、どうしてだかそれは自分の中で選ばれてないカテゴリーに入っていた。とても失礼なことだったんだけど、それはやっぱりたったひとりの人というのはこちらにも選ぶ自由があるからなんだろう。その双方向が成り立つというのは灯台同士互いに遠くから霧の中で光を送りあっていたのが、目の前に実体としてぼんやり現れてくるのに似ている。実体をみてほっとしたり、うーんと思うことはあれど、呼吸をするみたいに相手のそのままを受け入れることができるということはしあわせなことだなあと思う。なので今日も明日も実体をぺたぺたと確かめていったり、また遠くからぴかぴかやったりしていくんだろうなと思って、手触りのよい気持ちにエイヤーと身をうずめてることにする。


May 8
“ああ 僕のままで どこまで届くだろう” スピッツ「楓」

Apr 13
“人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねばならないのである。何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。” V. E. フランクル「夜と霧」

Mar 1

よわくなるということ

たぶん昔と比べるとじぶんは潔白で、強く、自分の考えを通すという意味では弱くなったとおもう。なあなあになることが増えたし、面倒くさいとまいっか、とぽいと問題を放り投げたりする。つよい正義感みたいなものが薄くなっていったし、ひとに迎合することが多くなった。

これは良いことなのか悪い事なのかといえば難しくて、それぞれいい面も悪い面も半々にあるだろうけど、総じて言える事は生きやすくなったということだとおもう。わりと間違った意味で「孤独に歩め、悪をなさず、求めるところはすくなく」と言った事を実践してたりした時のように、毎日いろんなことに頭をフル動員して真夏のシロクマみたいにぐったりすることはなくなったし、受け入れられることが増えた。ただ、未だに自分に対するハードルは高いらしいということもある。毎日清く正しく、と心がけていなければとたんにお麩のごとくふにゃふにゃしてダメになってしまうし、今はそれに片足を突っ込んでるんだけど。

怠惰な人間になった、といわれればもちろんだ。昔が四角四面なバリッとノリのきいた上等なワイシャツだとすれば、いまはナイロンでできたやすっぽい、やたらめったらシワができる安物のシャツになってしまった・・・

けれど、安物のシャツの視点からみると、世の中はそんなに厳しくもつらくもないように思えてきた。ワイシャツ時代はこの世に生きられるような場所なんかないってくらいに息苦しかったし、常時パリッとしていると案外肩が凝るのである。最近はなんだか余裕がなくなって、ワイシャツ的な考えに陥って、たいへんくるしいおもいをしたけれど、人間苦しかったり辛かったりすると、とたんに生きる事が嫌になるし後ろめたくなるし、あまりよいことがないなあということになった。当たり前といえばあたりまえなんだけど。

だから別に弱くたっていいんじゃないかと思う。わいわいとやれていれば、くたくたのナイロンシャツだって何だっておんなじことだし。そしてじつは、前述の仏陀のおことばの前には「もしも、思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、ともに歩め」とあるのである。幸いなこと周りの人にはとても恵まれてきたので、これからも多くのひとと話して、長くつきあえたらなと思う。

それに、やっぱりいつも独りじゃつまらないので、どうにも嫌になっても、これからも色んな人と一緒にいるんだろうなあ。それでいいんだ。


Feb 19
“あまりに幸不幸をとやこう言うのは、結局まったく愚かしいことである。なぜなら、私の一生の最も不幸なときでも、それを捨ててしまうことは、すべての楽しかったときを捨てるよりも、つらく思われるのだから。” ヘルマン・ヘッセ「春の嵐」

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